江戸時代、お酢は「米酢」はとても高価なもので、庶民の口にできるものでなかったのが、
ミツカン酢の創業者、中野又左衛門が、酒の残りの酒粕から酢「酒粕酢」を作ったことにより、江戸の庶民にも広がり、江戸前寿司の誕生に寄与したそうだ。
高価なものを、安価なもので代替し、それを国民文化レベルにまでおしあげたからこそ、日本の寿司が定着した。庶民の屋台料理から、高級料理から回転寿司までさまざまな多様性が残っている。また、海外での寿司ボートや寿司トレインまで、テクノロジーが進化している業態店まで現れる。
カリフォルニアロールやサーモンロールなどは、逆輸入された寿司料理だ。
2014/11/1/SAT 世界ふしぎ発見!日本が生んだ寿司文明より
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1804年愛知県知多半島は半田の地にて、ミツカンの創業者、初代中野又左衛門が世界初の酒粕酢を発明しました。風味が大変よく、当時江戸の庶民の間で広がりつつあったにぎり寿司との相性が非常によかったため、またたく間に、江戸中に広がっていきました。又左衛門の酒粕酢は、江戸前のにぎり寿司に最適なお酢として成長を始めたのです。酒粕酢を使用したすし飯は、ほんのり山吹色をしており、現在のすし飯の色と異なる特徴を持っていました。
引用元: プロのお酢とお寿司の歴史│くらしプラ酢│ミツカングループ商品・メニューサイト.
初代又左衛門は宝暦6年(1756年)に小栗喜左衛門家の長男として誕生した。半田村の有力な酒造家であった中野半左衛門家の幼い後継者の後見人として乞われ、養子に入ったのが、20歳の頃。以来、20余年にわたり半左衛門家の家業を守り続けた。
文化元年(1804年)、後継者の成長を見届け、正式に分家を許された又左衛門は、その年の秋、江戸に向けて旅立った。江戸に到着した又左衛門は、そこで当時流行のきざしを見せはじめていた“すし”に出あう。それは現在の“握りずし”の原型となった“半熟れ”(※)と呼ばれるものだった。
※”熟れずし”から”早ずし”へ移行する中間のすし。元々の“すし”は塩漬けにした魚を米飯に漬け、乳酸発酵させる熟れずしで一年以上かけて作っていた。一方、酢を一部加えて発酵を早めた押しずしの一種が”半熟れずし”である。
又左衛門は、現在のミツカングループの基となる中野又左衛門家を興し、酒造業のかたわら、酒粕を原料とした“粕酢”の製造をはじめていた。しかし、当時にあっては、酒造家が酢を造るということはまったく考えられないことだった。酒と酢は元来相性が悪く、酢のもとになる酢酸菌が酒をだめにしてしまうからだ。そんなリスクをあえて承知で、初代又左衛門は粕酢造りに取り組んでいた。江戸で“半熟れ”を食した又左衛門は、この“すし”には自分の造る“粕酢”の甘みや旨みが合うと確信。半田に帰ると、さっそく江戸での大量需要を見込んで、本格的な酢造りをスタートさせる。
粕酢製法の絵図
酒で培われた知多の海運力と販売ルートを活かして、江戸に粕酢を送り込んだ。又左衛門の“粕酢”はやがて江戸で評判のすし屋でも使われるまでになっていった。“半熟れ”(後に早ずし)の流行という追い風を味方につけた初代又左衛門の強運と冒険をおそれぬフロンティア精神こそが、ミツカングループの原点といっても過言ではないだろう。
初代又左衛門は、文化13年(1816年)、酢の経営を25歳になった太蔵に譲り、“酢屋勘次郎”を名乗らせた。自らは“増倉屋三六”を名乗り酒造業に専念することになる。家督を譲るに際し、初代は、事業経営・家督の心構えを伝える八ヶ条の「言置」を定め、二代目に託した。「先祖、一族を含め、周囲の人々に支えられてこそ、家業が成り立つ」。そのメッセージは、今日に至るまで中埜家の家訓として生き続けている。
江戸時代からの蔵にある大桶